白嶺荘再建記
植木俊彦(S38)

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 先代の白嶺荘が竣工してはや四半世紀が過ぎようとしております。築20年を過ぎた頃から、生まれが貧しかったせいか、先代君は急激に老化していった。この豊かな時代にあっては、OB諸氏が夫人や娘などを誘っても見向きさえされない施設になってしまったのである。
 先代君の生みの親として、何とかしなければと思いつつも資金調達のメドがある訳もなく、ただ哀れな息子を眺めるだけの日々であった。
 流れに一石を投じて下さったのはスキー部のために長年御尽力いただいた前スキー部長山口先生だった。先生は白嶺荘の先行きを非常に心配されており、『スキー部のシンボルたる白嶺荘をぜひ再建すべきである』という決意を示され、東大教授を退官される際に自らの退職金の一部を御寄付くださり、さらに92年11月には退官記念事業を催され、広い人脈の人たちからも御寄付を募ってくださった。これらの御厚意によりこたえ、再建の種を創って下さったのである。
 先生の御厚意にこたえ、この種を育て上げなければ男じゃない!と身を奮い立てました私ですが、心の中ではこれでやっと出来の悪い作品をこの世から消すことが出来るかと思うと喜びも沸き上がってきて、資金集めの困難さも忘れそうになった。

 さっそく取りかかったのは再建のための組織づくりであった。先代白嶺荘の建設に苦労したOB諸氏もすでに五十男(女)になり、フットワークも鈍くなったので全員リタイヤしてもらった。若手の金崎氏に委員長をお願いし、深田氏には総務部長としてすべてを取り仕切ってもらうことにした。この人事は大成功であり、建築担当の野口氏、再建後の運営担当の小室氏を始め続々とスタッフが決まり、ついには竣工祝賀会の担当者まで決定する充実ぶりであった。
 私の立場は、前回建設時とは異なり、建築面のプロデューサーに徹することが出来た。老眼の進んだ身の上としては、図面量も少なく、良い地位につかせていただいたので誠に動きやすかった。
 次に現在の建物を調査し、反省すべき点を洗い出し、再建の方向性を定める作業に着手した。93年6月野口氏と二人で白嶺荘をつぶさに点検した。残せる部分が少しでもあればと思ったが、すべてを取り壊し、作り直す以外に手がないことがわかり、寂しい思いもしたが、決断もついた。
 建築技術サイドから以下の方向性を定め、ほぼすべてが結果的に実現された。

このフレームのなかに細かく顧客(スキー部)の要望を取り込んでいかなければならない。小室氏がスキー部員から、使用上の希望事項を聞き出してくれ、要望リストにまとめてくれた。これらを形にすることには、さほど手間をとられなかったが、事業費の押さえと、工法選択が問題であった。

 事業費が厳しいことはもとより覚悟していた。遠隔地で低コストかつ、性能を上げる工法ということになると木造部分の工法選択が重要になってくる。さらに工期を出来るだけ短くということになると木造在来工法は不利であり、早々に対象から外れた。(ちなみに先代白嶺荘を担当した野口建設に概算見積もりを依頼したところ、約5600万円になった。)
 スキーリゾート地のイメージからはログハウスも考えてみた。実際に93年11月、深田、野口、植木の三人でわざわざ三重の山奥まで杉の集成材(材木片を接着して合成した材木)によるログハウスを見学に行った。一般の丸太ログの長所をすべて持ち、かつ丸太ログの欠点である丸太の沈下を無くしたすぐれものではあった。以下の点でログハウスを断念した。

かくして何の手立てもないまま、一年間再建を延期することにし、94年も過ぎてしまったのである。
 この間金崎、深田両氏を始めとするスタッフの努力でOB全員に呼び掛けた募金が、予想以上に集まってきた。OB諸氏の熱意を感じたが、全体の事業費から考えると日暮れて道遠しの感があった。
 この年、建築基準法が改正され、住居系の建物においては地下部分は床面積に参入されないことになった。(白嶺荘は敷地が傾斜しているので半地下式だが。)この改正はコスト低減にはならなかったが、プラン上は余裕が出てくる。(この為に最終プランにおいては、延床面積が約100坪となり私を苦しめることになった。)
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『着工の年』

 明けて95年、いよいよ待ったなし。このあたりから円高が急速に進行した。もともと日本と北米の住宅建設コスト差は2〜2.5倍あると言われてきたが、円高により我々の射程距離に入ってきたのである。これを利用して再建できないかという追求が始まった。
 友人の建築家鎌田久則氏が、1月に起こった関西大震災で倒壊した住宅をカナダ住宅で再建するというプロジェクトを計画していたので、さっそく4月バンクーバーへ調査に赴いた。鎌田氏の知人で現地のヨシ・アマノ氏(在カナダ22年)と会い、郷里日本へ住宅産業として進出する意志があり、見積もりをお願いすると30万カナダ$で出来そうとのことで前途に明かりが見えてきた。今から考えると4月は円高のピークでありカナダ$が62円であった。(その後8月に円が急落して、私めを地獄に落とすのではあるが)
 山口先生より、カナダには日本人を食い物にしている輩(たとえばタレントのO.K.のように)も多いので気をつける様にというアドヴァイスもあったが、その点は工場を経営し、野茂の様に日本人相手でなく勝負をしているので問題はないと思われた。
 かくして私のプロモートのもとで鎌田氏に図面をお願いし、設計および施工業者選定の作業に入った。半地下部分と設備部分は後日のメンテナンスを考えて、日本の建築業者に施工を依頼することにした。今までの経緯もあり、値段さえ合えば野口建設(大町市)にと思ったのであるが、どうしても価格が折り合わない。残念ながら野口建設をあきらめ、長野の第一建設工業に2200万円で受注してもらった。

 カナダとの交渉は相当手こずった。寸法のインチ、フィートはすぐに慣れたが、見積もりの寸法、ビジネスの進め方は日本とまったく異なるのでFAXの山との戦いであった。もしこれが英語でのやりとりであったなら私の能力では無理であったろう。カナダとの交渉が長引くうちに、時間的に追いつめられたので、日本側工事をまず着工することにした。8月11日早朝、あっと言う間に先代白嶺荘は解体され、基礎工事が始まった。日本側工事が始まったことにより、建設委員の覚悟も決まり、不足分はとりあえず、立て替え可能なOBから借入いたし、後日小屋の運用益と、OB会員の寄付から返済していくことにした。かくしてアマノ氏が9月7日来日した折に、約30万カナダ$にて契約し、10月10日のカナダ人大工の乗り込みにやっと間に合ったのである。


『追記』

 今回の記述はあくまで建築サイドのものであり、いずれ竣工の暁には深田氏から総括をお願いしたいと思っている。
 それにしても東雪会には人材が多く、私もずいぶん助けられた。円安が進む前に$を買っておいて防衛したり、カナダ側の税制をチェックしてもらう等感謝しております。
 最後の今回の白嶺荘建て替えに関し、地主である白馬観光開発株式会社は更新料なしで、建て替えを許可して下さいました。誠にありがたいことだと思いここに記しておきます。
−完−


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