囚人日記
天離 鄙人

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 私が、親の原強制収容所に到着したのは、7月30日の正午近くでありました。この収容所は、名前こそ「日の丸山荘」となっておりますが、その内実は泣く子も黙る収容所として世に恐れられているのであります。この収容所に入れられて、生きて娑婆の土を踏んだ者はないと聞いております。玄関の前にたった私は、中にはいるのを一瞬ためらいました。そして振り返って、二度と見られないかもしれない娑婆に目をやりました。絹糸のような細い細い雨が淋しく降っておりました。これが、収容所へはいる私への自然のはなむけかと思われるような淋しい淋しい景色でありました。私はやっとの思いで未練を断ち切り敷居をまたいで玄関の中へはいりました。
 家の中を見渡しても人影はなく、案内を乞うても出てくる者はありません。その時、私の耳に、洗牌の音が聞こえてきたのであります。私は、その音に導かれるように歩き出したのであります。そして行きついたのは、私より一日早く投獄されたA班の部屋でありました。かくして私は親の原強制収容所の囚人名簿に名を連ねたのでありました。
 約一週間後に、私は脱獄に成功したのでありますが、強制収容所の悲惨な真実を、広く世間に知らせることは私の義務であると考えここに筆を執った次第であります。

●7月30日

 雨のために作業が始まったのは昼食後大分たってからでありました。ロッジ建設予定地はいわゆる沢のような地形でゆるいU字形の谷をなし、その一方が極端に低くなっております。土盛りの困難さが予想されました。前日の強制労働で、目ぼしい木は殆ど切り倒され、切り株がニョキニョキと立っておりました。今日は、この切り株の根を掘り出すわけでありますが、地上に出ている切り株はいともか細く見えても、地中をはう根は執拗にからみ合い長く伸び、作業は遅々として進まなかったのであります。しかしながら私達は、格調高く労働し、直径が1 m以上もある根を掘り起こすなど、多大な成果を上げて今日の作業を終えたのであります。
 夜は、麻雀と酒が私達の楽しみとして与えられます。麻雀の方は須甲君が得意のスコリをやって一人気を吐いております。私は皆の勝ち分を一人で背負っているような負けっぷりで一人しょぼくれております。

●7月31日

 前日に引き続き、根を掘り起こす作業を行ったのであります。敷地内の白樺は切ってしまうのは惜しいので移植いたしました。白樺は移動の際、逆に立ててはいけないのであります。なぜなら、「しらかば」が逆になると「ばからし」となって、折角の労働が水泡に帰し、「ああ馬鹿らしかった」ということになるのであります。
 三日間の労働で、どうやら邪魔者はなくなり、明日からは土盛り作業になるとのことであります。今日は、私にとって最悪の日でありました。麻雀は例によって勝運に見放され低迷を続け作業中ウルシにかぶれて、顔にブツブツが現れ、文字通りの紅顔になってしまったのであります。更に悪いことには、夜、水谷さんのトヨエースを運転して誤って光臨を川の中へ落としてしまったのであります。
 この時の様子を述べてみますと、真っ暗がりの中で方向転換をしようと思い、バックいたしますと突然ガクンと衝撃を受け、車が後ろに傾斜いたしました。これは溝へでも落ちこんだかなあと思ってアクセルを思い切って踏み込んでみましたが、タイヤのスリップする音すら聞こえません。そこで車を降りて見てみますと、後輪が川の中へ落ちこみ完全に宙ぶらりんになっております。おまけに前輪までも浮き上がって、車は、ガソリンタンクを支点にしてニッチもサッチもいかなくなっているのであります。これは大変と皆を呼んで参りましたが、夜のこととてどうしようもなく、明朝道具をそろえて引き揚げ作業をすることになったのであります。
 悪いことが余り続くと、娑婆へのノスタルジアがムクムクと頭をもたげて参ります。楽しかった日々を思い出して、人知れず涙に暮れる私の姿は、正に一幅の絵になるものであったと思っております。

●8月1日

 昨夜私が川に落としたトヨエースを引き揚げてから、敷地内の小さな木の根や草を片付けて、いつでも土盛りができるようにして午前の作業を終えたのであります。
 午後は、近所の民宿に泊まっている人達との対抗卓球大会でありました。私は須甲君と組んでダブルスに出場したのでありますが、持って生まれた才能はかくしおおせるものではなく、2 - 0とストレート勝ちをおさめたのであります。しかしながら、私は、娑婆に生活する人達への憎しみが球にも通じて勝てたのだと謙虚に考えております。
 卓球大会で勝利をおさめたことが、勝運を招いたのでしょうか。この日の麻雀はつきについて、今まで負けていた分を完全に挽回し更に、いくらかの余剰生産ができたのであります。勝つ者有れば負ける者有るのが勝負の世界のさだめとはいえ、勝った者は更に大きな勝利を目指し、負けた者は挽回を期し、次第に娑婆へ復帰する意欲を失ってしまうのであります。私も、危うくこの泥沼に沈みそうになったのでありますが、私の帰りを待っている妻子が私を奮い立たせ、私は着々と脱獄の計画を立てていったのであります。

●8月2日

 今日から土盛り作業が始まったのであります。ロッジの裏手が高台になっているので、そこに裏道を作る為に地面を掘り下げ、その土を低い所へ運んで高くするのであります。収容所の一輪車が役に立ちましたが、何せ機械力が全くありませんので、作業の進行ははかばかしくありません。
 昨日まで作業を共にしていたA班もいつしかB班と入れ替わり、A班の人達がどうなったのか気掛かりでなりません。彼等が、断頭台の露と消えたのではないかと考えると、背筋がゾクゾクとならずにはおれませんでした。明日は私が断頭台に立たねばならないかもしれないのであります。私は脱走を早くせねばならないと焦燥と不安にかられながら作業を進めたのであります。

●8月3日・8月4日

 作業は単調に進められましたが、作業が単調ならば単調な程、私の不安は高まったのであります。しかし、引導を渡す坊さんが来ない所を見ますと、私の処刑はまだのようであります。死ぬことがわかっていて、しかもその時期がわからないということ程恐ろしいことはないのであります。心身共に疲労した私はともすると作業の手を休めがちになるのでありますが、そうすると、看守の鞭が容赦なく私の体に浴びせかけられるのであります。一日も早く脱走しなければ処刑されなくても死んでしまう。こう考えた私は、かねてからの計画を明日実行する決意を固めたのでありました。

●8月5日

 午前の作業を終え、昼食を済ますと、私は仲間に入れた野口・竹内両君と最後の打ち合わせをしたのであります。野口君が何気なく車のエンジンをかけておき、私と竹内君は警備陣の裏をかき、玄関を突破して車に飛び乗る。これが私達の計画でありました。三人とも、脱走が失敗するのではないかという不安と娑婆に出られると言う期待とが入り混じった複雑な表情でありました。
 12時30分、計画は実行に移されました。警備陣の手薄をついて、私達は玄関突破に成功し、車に飛び乗ったのであります。車は静かに、しかし、力強く動き出したのであります。収容所の建物が見えなくなっても、サイレンの音はせず、追跡者の姿も見えません。私達は脱走に成功したのであります。車の窓から入ってくる風は、ほこりっぽかったのでありますが、これが娑婆の空気かと思うと胸一杯すいこまずにはいられなかったのであります。脱走に成功したという実感が、止めどもない涙と共に現れたのは、松本から新宿行きの列車に乗り込んでからでありました。車窓に映る私の顔は歪んで見え、時には、それが妻子の顔と交錯したりしたのであります。私は、疲労の為、いつしか眠りにつき、気がつくとなつかしいオレンジ色の電車とすれ違う東京近くまで来ておりました。

−−作者後記−−

 帰京後、風の噂に聞いたところでは、その後、土盛り作業がほぼ完了し、それと同時に全員が脱走に成功し、親の原強制収容所は事実上消滅したとのことであります。娑婆の土を踏むことなく、亡くなられた同胞の方々の御冥福を心から祈るものであります。と同時に、再びこのような悲劇が起こらないよう、平和運動の推進に尽力せねばと決意するものであります。
 なお、作者の「天離鄙人」という名前について一言説明いたしますと、「天離」すなわち「あまさかる」は「鄙」にかかる枕詞、「鄙人」は、「田舎の人」の意で、「カッペ」のことであります。
(部誌より)