知らんもんね
−スキー部ロッジ建立列伝−

42年 細井 敏之

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 誰でも悪戦苦闘した後、どうしても目的が達せられぬことを悟ると不思議に、ほっとした気楽な状態に陥ることがあります。時代劇でよく見かけますが、粋のいいチンピラが啖呵を切った後に観念して「殺せ!」と腕組みして座り込むあれと同じようなものなのです。
 目標金額450万、期限六ヵ月という膨大な計画を前にして我々は「おら知らねー」「知らんもんね」といった一見無責任のような言葉を発し続けたのです。
 「募金はどの位伸びるだろうか」「この募金作戦は最良だろうか」「期限に間に合うだろうか」「果たして建つのだろうか」
 次から次へと覆いかぶさってくる不安が頂点に達すると、「知らんもんね」とセリフを吐き捨てる。ふっと楽になる。すぐ又不安がかけめぐる。そんなことを言ったってどうしても集めにゃあならんのだし。この計画の主謀者たる植木氏はコンパの席上で力説した。
 「僕は一人になっても小屋を建てて見せます」と。

昭和45年6月

「やるだべし」の巻
第一回会議 於・桜台
 かねてから懸案のスキー部ロッジを何とか建設しようという決定がなされる。土地契約期限が追って今年が最後のチャンスなのだ。スキー部の当時の保有金額は約40万であった。具体的な目標として会社寄付250万、OB寄付100万、バイト50万である。会社寄付は東大卒の重役をたよりに、運動会関係、スキー関係から入ってみることにした。
 於・茅先生研究室
一同「・・・という次第で何とか資金を集めるつもりです」
部長「その話はちょっと耳にしたことがあるが、こんなに切羽詰ったものとはな。第一もうすぐ活動しなきゃ間に合わんじゃないか。まあできるだけのことは私としてもやってみましょう」
実に心強かった。

 趣意書草稿、印刷準備終了。財界人リストアップ作業始まる。植木氏、長野県大町に出張、野口建設と具体的な交渉始まる。「やるだべし!」の気概充実。準備活動へと遂に突入した。

 知らんもんね


昭和45年7月

東大スキー部シンクタンクの巻
第○回会議 於・桜台
 会議を重ねること十数回に及ぶ。募金委員会々長に大来先輩の父親にあたられる大来佐武郎日本経済研究センター理事長を迎える。ここに準備万端あい整い東大スキー部のシンクタンクたるべき募金委員会が発足した。メンバーを紹介しよう。
植木 俊彦(昭和41年度主将)設計・交渉
小林 尚(昭和43年度主将)募金
細井 敏之(昭和44年度主将)募金・輸送
吉村 慎治(当時主将)募金・バイト
中尾 真(当時主務)募金
野村 純一(当時副主将)募金・会計
遠山 稿二郎(当時駒場主将)募金
 植木氏の傑作たるロッジの青写真を取り囲んで話が進んだ。黒岩大先輩が心配そうにのぞき込む。
 とうとう建築契約もまとまり、工事の日程も決まった。とりあえず十月までに百万円が必要となる。さあ本格的に会社廻りだ。
 「だけど集まらなかったらどうしよう」
 「部員の父兄からとりあえず借金だな」
 「馬券でも買うか」
 「いや宝くじにしようぜ」

 知らんもんね


昭和45年8月初旬

初陣玉砕の巻
 紺のネクタイきりりと締めてカバン片手にいざ出陣。細井・吉村班は鼻歌も高らかに目指すはパルプ大手A東京本社、案内嬢の微笑みは洋々たる前途への祝福かとぞ思う。
「…かようなわけで是非御協力願いたく、無遠慮を顧みず参上いたしました。はぁー」
T秘書課長
「何とか協力したいのですが、当社も最近はあまり好調でないので」
I相談役
「寄付なんてそうざらに出してくれっこないですよ。君達が渋谷の駅前で十万円くれと手を出して、いったい誰がポンとくれますね。250万は正直言って難しいよ。君達がそれだけ集められたら君達を重役として迎えたいくらいだよ、まあできるだけ相談には応じたいし、紹介してもいいですが」
 帰り足の重いこと。カウンターをくらって玉砕したその晩は酒を浴びて早寝したように思う。それでも「がんばりなさいよ」と言わんばかりの秘書課長の優しさは印象的だった。
 気分をとり直して本日は嘉治先生に紹介状を頂いたN新聞社とM商事を訪問する。N新聞社にはスキー部の先輩もいるし、今年の就職予定者もいるのでその辺を強調してみた。M商事もかなり期待できる応対ぶりであった。

 H 「おい、これなら出そうだなぁ」
 Y 「まぁ大丈夫でしょうねぇ」
 H 「ドバッと十万だめかなぁー」
 Y 「そりゃ無理ですよ、まあ五万がいい所ですよ、フム。」

 夜、小林・野村班より電話。記念すべき晩だった。
 野村がうわずった声で叫ぶ。
 「でました。でました。個人寄付N放送のN氏より一万です」
 金額云々よりも、まず寄付があったことが感激だった。何か胸のつかえがとれたと感じたのは私だけではないはずだ。N氏に感謝しつつ就眠。
 ボツボツと寄付の申込が増えてきた。
 最近、遠山からの電話が多い。もちまえのバイタリティを発揮して走り廻っているようだ。
 中尾は帰省がてら、西の企業を切り崩すべく関西に飛んだ。
 今日も蒸し暑く、ネクタイが首にくい込む。さあ、がんばってあと一、二社廻ってしまおう。

 これから、知らんもんね。


昭和45年8月中旬

運命の実力者出現の巻
 OB寄付もほぼ出そろい、会社寄付もかなり順調なのだが、何とも大口の寄付がない。どうしても150万ほど不足しそうである。「知らんもんね」もかなり深刻な響きをもってきた頃、運動会理事長の松田教授の御尽力により、ある経済関係の有力団体たるKの専務理事H氏の紹介を戴いた。
 本日は茅先生を筆頭に私と吉村が従ってH氏を訪問する運命の日である。
部長
「この度、私共、東大スキー部では……で是非御尽力戴きたく」
H氏(やおら櫛を取り出し、髪の手入れをした後、にらみつけるように)
「趣意書を見せ給え、会社廻りのリストは持っているかね、エエ」
小生
「ハハー、こちらに」
H氏
「一社から十万ずつ、十五社くらいですむだろう。私はこんなことは余りしないのだが、まあ特別にやってやろう」
 今までの苦労からすれば、まるで夢みたいな言葉を耳にして半信半疑の面持ちは吉村とて同じであった。
 「あんなこと言って、本当に出るんでしょうかねえ」
 「まあ何としても実力者だからなぁー」

 知らんもんね


昭和45年9月

茅部長大奮闘の巻
 実力者H氏の紹介状を持って本日は業界の大手を一気に六社廻る。多忙な日程から一日をさいて戴いて、茅部長自ら出陣。お供は小生。今日ばかりはいつもと違った気合いがこもる。さあ勝負どころだ。
 TH電力。話しぶりからまず無理だと、茅先生。続いて同種のTK電力すんなり十万。やった。さらにN自動車、又十万、すごい。D銀行、K銀行、H製作所それぞれ確約をとる。
 会社廻りは時間厳守が大切だ。遅刻などはもってのほか。それだけでもう信用はない。いつも十分〜二十分、時には一時間も前に着いてじっくり約束の時間まで待機する。そしてその間のコーヒーをすすっている時が、あの張りつめた時から解放される募金委員の唯一の贅沢なのである。
 実力者H氏の御紹介、さらに茅先生の精力的な御協力そして募金委員の地道な努力が実ってどうやら資金のメドがついたのは、この月末であった。なかにはC信用金庫のH専務の様に特に御厚意を受け、忘れられぬ方々もあった。募金委員の募金活動はさらに12月まで続いた。時には一年生もかり出され、会社廻りの苦労をかいま見た者もあった。
 だがここに思ってもみない難題が突然カマ首を持ち上げた。ロッジの建設工事が遅れてきたのである。既に今年の合宿は完成予定のこの小屋で行うことになっている。何とか間に合ってほしいものだ。

 そんなことまで知らんもんね


昭和45年11月中旬

「何とか住めるぞ」の巻
 我々は10月一杯をやれるだけの募金活動にあてた。さてスキー部諸君!11月ともなるとチラホラ初雪の便りが届いてきます。
 こうなると妙にそわそわしてくるのは、スキー部諸君なら「もっともだ」とうなずいてくれるでしょう。
 まして小屋の完成とともに、今年は誰にも遠慮することなく練習ができ、食事も音楽も、語らいも、そしてあのコンパの無礼講でさえもやりたいだけOKなのです。
 11月12日遂に上棟式を迎えました。この日の植木氏の感慨はいかばかりであったでしょうか。工期はなお遅れていますが、ここまでこぎつければ後は寝袋だけでも何とかなるでしょう。遠山を中心にして集められた物資も安住の地、栂池に運ばれる日が来ました。小生はその抜群の運転技術と抜群の有閑をもってして輸送隊長を任ぜられたのです。
 星のチラつく東京を後に深夜の中央高速を飛ばす隊長さんは、まだ見ぬロッジの構を胸に描き、上機嫌でした。

 知らんもんね


昭和45年11月28日

チビ狂乱の巻
 本日は楽しい日なのです。東大スキー部のシンクタンクは茅先生より特別の招待を受け奥様の手料理で迎えられるのです。あの長い緊張の日々を回想し、各自の苦心談や失敗談がいっせいに飛び出します。酒の巡りもはやく、先生始め誰の顔面にも笑みがこぼれておりました。足取りが怪しくなった吉村は途中より次室で休んでおったのですが、一同いざまからんの段となり彼を起こしたのです。ところがどうしたことでしょう。彼は大きな目をカッと見開き、
 「シャツの片ソデがない、片ソデがない」
と叫ぶのであります。この時の彼のいでたちは、白の長袖のシャツをちゃんと着ておりました。はたまた彼はタンスに走り寄り、これを引き出さんとて力をこめるのであります。あわてた一同これをつぶさに取り押さえ、玄関より出でて定員オーバーの車に乗せて帰ったのであります。小屋の完成にまで、ほぼこぎ着けたという事実が当時の主将である吉村をして、その背より、あれほどの重荷を解かしめたのでありましょう。しかし、この晩一体誰がこの次に我々を襲ったこの最大のピンチを予想したでありましょうか。

 知らなかったもんね


昭和45年12月中旬

「浄化荘はどうだ」の巻
 合宿もあと20日ばかりに近づいた今月の初め、近年にない豪雪が栂池を襲った。
 雪は我々の心配をよそに一週間も降り続き、もはや建設工事は手もつかず、九分通り完成の望みは断たれたかのように思われた。首脳陣の憂色は濃く、特に主務たる中尾は六大戦を前に宿舎問題で頭を抱える始末であった。これだけ金も集めたのに、嗚呼我々の努力は無に帰するのであろうか。毎日毎日が天気図とのにらみ合いで暮れた。十日になって雪が突然止んだ。奇蹟だ。建つかもしれないというほのかな光明がさす。12日積めるものを全て積んで第三回目の輸送を行う。大町を過ぎるとすぐチェーンを巻かねばならなかった。確かに雪は深い。我々のロッジは屋根にすっぽりと雪をかぶり、未だに二階の床を張っている状態である。大工さんが二、三人口笛を吹きつつ、そそくさと手を動かしている。ここ二、三日晴れてくれればブルが入れるので何とか住めるようにはなるはずだという。バカでかい浄化槽がポンと置かれている。これが埋められるか否かによって水洗トイレができるか、或いは仮の屋外厠となるかが決定するという。帰路の会話を抜粋してみよう。
 「あと十日で合宿入りですが今のままじゃとても住める状態ではないですね」
 「とにかく、又雪が降ったらもうおしまいだ」
 「女子部員やエッセン番の女子のためにも何とか水洗にしたいですね」
 「あのバカでかい浄化槽さえ埋められればなあ」
 「ところで小屋の名前はどうしよう」
 「ありきたりのじゃつまらんぜ」
 「浄化荘はどうだい。こんなに迷惑かけたやつなんじゃ」

 知らんもんね


昭和45年12月

「とうとうやったぜ」の巻
 どうやら天気も持ち直し、何とか住めるという情報が入った。よかった。さあ合宿だ!!先発隊が出る。遠山を隊長に近藤、志村、土方の一年諸君である。私はそれから遅れること数日、24日頃入山した。そして初めて踏み入れたあの一歩を忘れることはあるまい。塗装は未了で生木が出ているのだが、何となく暖かく部員たちがなごやかであった。皆に出迎えを受けながら一階、二階と見て廻る。何とかでき上がった水洗のトイレ、一人二人がせいぜいの木製の浴槽、一年生が前掛けをして忙しそうに台所で働いているのも何かこうほほえましい。我々のこれまでの活動は今、眼前にある、これらの有形無形のものとなって現れた。やったぜ、やったぜ、我々はとうとうやったんだぜと自らに言い聞かせるように一つ一つの物に手を触れていく。先発隊の苦労も並々ならぬ物だったと聞いている。さもあらん、あの状態のこれまでにしたのだから。さらに米の買入、燃料、電気、水道の手配等いくらやってもやりきれぬ位の雑務があったはずである。御苦労さん。
 なれない小屋生活であるが一つ一つ仕事を憶えながら合宿は進む。とにかく一年生がよく働く。ミーティングも統率がとりやすい。さあ次は六大戦だ。

 試合のことまで知らんもんね


昭和46年1月10日

知らんもんね消滅の巻
 六大戦の優勝と共に、二十日に渡る長い合宿にピリオドを打つ。勝った喜びと開放感に満ちた晩は飲めや歌えの大酒宴である。カップにつがれたビールは次から次へと回し飲みされ、ギターやペットの音は止む時を知らぬ。諸君!こんな晩に一人外に出て小屋を見てくれ給え!しんしんと降る雪は静かで足下は暗い。その中にほんのりと明るく映し出された私たちの小屋は、屋根からすっぽりと雪の蒲団にくるまれて、まるで御伽噺に出てくるそれとにています。何となく暖かさがにおうのです。まして思い出したように時々ドッと部員達の歓声があがるときはなお。
 これからこの小屋君はどれくらい立派に化粧してもらうのでしょうか、どれほどたくさんの部員を育むのでしょうか。夢はつきることを知りません。この日から「知らんもんね」は消えました。
(部誌より)

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